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飛び立つ君の背を見上げる -中川夏紀は「いい人」だったのか-

高校生のころ、特に理由はないが私は部活に所属していなかった。部活に所属していないのはクラスでも2,3人しかいなかったように思う。それに対して、どうとも思わなかったが、全員部活に入ることを強制される学校があるという話を聞いた時は驚いた。
しかし改めて考えると、中・高校時代の思春期の中にあって部活動というのは分かりやすくアイデンティティになるのだろう。
『飛び立つ君の背を見上げる』は部活を引退してから卒業までのモラトリアム期間、つまり高校時代のアイデンティティをひとつ喪失したところから始まる物語である。


本作は、北宇治高校吹奏楽部を舞台に繰り広げられる小説『響け!ユーフォニアム』シリーズのスピンオフ作品。シリーズの主人公・黄前久美子と同じユーフォニアムを担当する一つ上の先輩・中川夏紀視点で描かれる。
吹奏楽を引退した夏紀が高校卒業までの間、波乱ともいえる2年半の部活生活を見つめ直す。

「吹部に入ったの、失敗やったかな」
『飛び立つ君の背を見上げる』68Pより

部活に入って3か月、一度ははそう漏らした夏紀だが最後まで部活を続けた2年半。
上級生の対立や体制の変化を機に多くの仲間が部を去っていくのを見守り、高校から吹奏楽を始めた初心者ながら、最終学年では副部長を務めた夏紀。
しかし、顧問が変わり全国を本気で目指す部になるまで練習に精を出すわけでもなくサボり魔だった夏紀。ユーフォニアムの先輩・後輩や、音大を目指す友人など、優秀な奏者に囲まれた吹奏楽の中では夏紀はどうしようもなく平凡だった。
だからこそ、部活を通して何をしたのか、自分は部活で何をなしたのか、どんな人間だったのか。同じく部を引退した友人の傘木希美、鎧塚みぞれ、吉川優子と卒業までのモラトリアムを過ごす中で、彼女たちと築いてきた関係を振り返る中で、自分を見つめ直していく。


まずは、希美について。中学時代、吹奏楽部の部長としてリーダーシップを発揮していた希美のこと。特別仲が良いわけでもないのに夏紀を吹奏楽に誘ってきた時のこと。やる気のない上級生と対立し、部を辞めようか夏紀に相談してきた時のこと。
つぎに、みぞれ。時期は違えど同じように希美に誘われて中学時代に吹奏楽部に入ってみぞれのこと。希美が部活を辞めた後も変わらず音楽室でひとりオーボエを吹いていたみぞれのこと。
そして、出会った当初から何かと突っかかってくる優子。しかし、部長と副部長として部を一緒にまとめてきた。


緻密な心理描写によって綴られる回想は、解像度が高く感情をあまり表に出さない夏紀の心情も丁寧に拾い上げられており、これによりグッと本作は味わい深いものになっている。

回想の中ではっきりと分かることは、彼女たちと夏紀は性格も、価値観も違えば、共有している中学時代の部活の思い出もない。
始めからウマがあって仲良くなったわけではない。大なり小なりわだかまりを作りながらも、現在の関係を築いてきた。
もし希美に部を辞める相談されたときに違う言葉をかけていれば、もし一緒に部活を辞めていれば、もし違う楽器を担当していれば。そう思うところも確かにある。
しかし、夏紀はそういった思い出を否定はしない。

「うちが辞めたら、希美の誘いがなかったことになるやんか」
『飛び立つ君の背を見上げる』105Pより

それは、希美が部を一度辞めた時、どうして夏紀は部を続けるのか問われ答えた時の言葉だ。
同じように彼女たちと過ごしてきた2年半はどれも、彼女たちらしさ、アイデンティティだ。だから、彼女たちが好きな夏紀はそれを否定することはしない。それが中川夏紀という人間なのだろう。


喪失感と隣り合わせのモラトリアム期間には、後悔や苦悩、寂寥もある。そんな感傷的な雰囲気を漂わせる本作だが、前向きさを確かに感じるのは、過去を振り返る夏紀もいずれまた次の一歩を踏み出すのだろうという確かな予感があるからだ。

今日の一枚

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