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平家物語 -語り継がれた物語を如何にアニメに落とし込んだのか-

偶然にも治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦がテレビアニメ『平家物語』と大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の2つの作品で並行して描かれている。『鎌倉殿の13人』の脚本家の三谷幸喜によれば「吾妻鏡」を原作であるという。

対してアニメ『平家物語』は古川日出夫が現代語訳したものを原作としている。
古川日出夫の現代語訳は、いくつもの増補を多数の語り部、琵琶法師を召喚して訳されたという点がひとつ特徴的だ。というのも「平家物語」は琵琶法師が琵琶を鳴らしながら語られた古典文学として知られているが、語り広まっていく過程で源平合戦にまつわる様々なエピソードが増補されており、様々な諸本が存在するのだ。
古川日出夫は前語りで現代語訳の構成を付すにあたって以下のように述懐している。

私は、平家が語り物だったという1点に賭けた。
その時代、琵琶法師たちがこの物語を語り広めていたのだ、という史実に、賭けた。


この多数の琵琶法師の語りから成る原作に対して、アニメ『平家物語』では語り部は"びわ"というキャラクターに集約されている。この変奏にはどのような意図があったのだろうか。
この事を考える手がかりとして、幾つかのインタビューで監督の山田尚子
叙事詩ではなく、叙情詩として描きたかった」
と語っている。

端的に言ってしまえば、歴史的な出来事を淡々と描いていくのではなく、その時代を生きた人々を気持ちや想いを掬い上げて描きたいということであろう。

この言葉を聞いた時、私は小説『氷菓』のある一節を思い出した。

全ては主観性を失って、歴史的遠近法の彼方で古典になっていく。いつの日か、現在の私たちも、未来の誰かの古典となるのだろう。

ここでの主観性とは、誰かの感情、気持ちのことを指している。
これに即して言い換えれば、叙情詩で描くというのは、
「歴史的遠近法の彼方で古典となった”平家”の主観性を取り戻したい」
ということだ。

びわ”というキャラクターは、言うまでもなくアニメオリジナルのキャラクターである。
このびわ平重盛の下に引き取られ、平家一門の中で暮らしていく。また、びわは未来を視ることができる目を持っているというキャラクターだが、史実が大元にある物語という性質上、びわはその未来を変えることができない。因果を見通せるが変えることができないびわというキャラクターを配することで、アニメ『平家物語』は”殿下乗合事件”や”鹿ヶ谷の陰謀”といった出来事を軸にした物語ではなく、”平徳子”や””平重盛”ら登場人物に寄り添った物語に仕上がっている。
つまり、びわの視点を通して、この物語の主観性を獲得しているのだ。

また、狂言回しとしてのびわは、現代に生きる私たちと視点を一部共有するキャラクターであると言える。しかし、物語の終盤、平清盛の死以後平家を追い出されたびわは、びわ自身の物語を始める。そして、旅の中でびわは決意する。平家一門の行く末を見届け、彼らの想いを語り継ぐ、と。
アニメ『平家物語』は単に古典を古典として描くのではなく、歴史的出来事の間に生きていた人々の感情を掬い上げることで現代に蘇らせた。それは語り継いできた多数の琵琶法師の末席に加わった、びわという琵琶法師の新たな増補なのである。

今日の一枚

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そういえば、学部の卒業旅行では厳島神社に行き、修士の卒業旅行では平泉に行き。どっちもこの時代ゆかりの地だったなあ。