メガネ属性≠負け属性

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聲の形 -他者の存在を受け入れるということ-

ここ数年でLGBTQといった言葉は広く浸透し、多様な価値観認めるという考え方は一般的なものになってきている。しかし、言葉の広がりに反して、他人の価値観に寛容になっているのだろうか。ことネット上に限定すると、むしろ他人に狭量になり息苦しい空気が形成されていると感じる人がいるのは私だけでないだろう。そんな事を静かに考えていると、『聲の形』という作品を思い出す。


聲の形』は石田将也と聴覚障害を持ったヒロイン・西宮硝子の交流を中心とした物語だ。本作でまず目につくのはヒロインが聴覚障害という特徴を持っているところである。だから、ここだけに注目して聴覚障害者とのコミュニケーションが主なテーマであるのかと思うのは早計だ。フィルムを観ると石田と西宮の小学校時代のいじめがまず始めに描かれていることから分かるように、過去にいじめがあり、その罪を犯した石田がやり直すのという物語が本作の縦軸になっている。

本作が描くいじめの構図は、いじめっ子の石田といじめられる西宮と言う単純な形にはなっていない。石田を扇動していじめの空気を醸成する植野や島田、西宮の味方をするものの巻き込まれ逃げ出す佐原、直接的には関与しないもののいじめの空気に同調する川井、いじめを形成する周辺の人物も描かれている。
えてして創作の中では、どうしてもスポットが当たるのは石田や西宮のような渦中の中心にいる人物であり、周辺の人物のディテールは削ぎ落されがちだ。しかし、現実をみると石田や西宮のような体験をした人よりも、周辺の人物のような経験がある人の方が多数派である。そんな多数派の、しかし、いじめに決して無関係ではない人物のディテールが本作では精緻に描かれている。これにより本作は我々観客も自身の過去の傷や後悔をつい省みてしまうような作品になっている。

そのため、人によっては本作を観るのが辛い、疲れるというイメージを持っている人もいるだろう。物語としてもは序盤のいじめから始まり、全体を通してディスコミュニケーションをしていく描写が多い本作は、上のように自分の過去に向き合わなくても楽しい気分になる作品ではないだろう。しかし、何度間違え、過ちを犯しても、またやり直していく彼ら彼女らの姿は、見ている者に力を与えてくれることも確かだ。

また、本作では相手を受け入れるということと好悪感情が明確に別の位相であるように描いているというのは、ひとつ特筆したい点だ。小学生時代から事あるごとに西宮に辛く当たる植野は、ラストに至っても「西宮のことが好きになれない」と言う。そんな植野も、自分の"嫌い"も含めて西宮の存在を受け入れ、西宮と話すために手話を覚える努力をする。この嫌いだから排除するのではなく、嫌い人もいることをまず受け止める。そこからふたりの関係は始まるのだと強く感じるこのシーンは本作の中でも強く印象に残るシーンだ。その他にも、本作では人と人が交わる中で心に留めておきたいと感じるようなシーンが幾つもある。

本作を観ると、自分とは違う他人に歩みよることの難しさを痛感する。しかし、コミュニケーションの物語としての普遍性も十二分にある、まっすぐ芯の通った作品だ。

今日の一枚