メガネ属性≠負け属性

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どうしてアニメーションに惹かれるのか

凪あす×色づくのコラボ展に行ってきました。どちらも好きな作品なので雰囲気に浸れる空間が素敵だった。

凪のあすからは、パッと思い返すだけで好きなシーンがいくつも浮かんでくるし、次のセリフが予測できるくらいに何度も観たし、セリフだけでどこのシーンかあたりをつけるくらいできる。そのくらい好きだ。

どうして「凪のあすから」が好きなのか?から辿って、自分がどういう物語が好きなのか?どうしてアニメを観続けるのか?ということを細々と考えていた。

結論から書くと「現実とは違う世界でリアリティを持ったキャラクターが描く物語」が好きだというところに至った。

群像劇という形式

群像劇が好きなのは、アニメを観るようになって割と始めから自覚していた。

好きなアニメを列挙していけば明らかに群像劇が多いし、本の世界でも群像物を集めていたから好きなんだなと気づくのにあまり時間はいらなかった。

凪のあすから」も例に漏れず群像劇だ。

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群像劇のどこが好きなのだろうか。人と人との繋がり、関係の変化、葛藤、等々。単純に好きなところを挙げようと思えば幾つか出てくる。

しかしどれも本質的なところには至っていないように感じた。群像劇では、主役の代わりはストーリーテラーであり、主要キャラクター達は同じ主格をもって描かれ、その平等性はキャラクターもその物語で息づいていると感じる。

そう、息づいているのだ。息づいたキャラクターは物語に生活感を与える。更に言うと物語の実在性を高めている。

群像劇は人と人との関係性を描くのが主軸に据えられる。それ故、どのキャラクターも性格や嗜好を物語の進行中に提示して描かれる必要がある。それは息づいたキャラクター生まれさせ、その世界に生きていると感じさせるのだろう。

つまるところ、群像劇が好きな理由はキャラクター生きていると認知または錯覚できる物語を享受しやすいからといったあたりだろう。

 

異世界への羨望

そうなると、ファンタジー要素の入った作品は、キャラクターの実在性の錯覚に一歩障壁を与えるため不利なのではないか。どうして同じ群像劇でも「TrueTears」や「花咲くいろは」よりも「凪のあすから」のほうが好きと明確に感じるのか。キャラクターの実在性のみにこだわっていえば、明らかに実写のほうが分がある。

どうして「凪のあすから」が好きなのか

どうしてファンタジーな世界観が好きなのか

どうしてアニメーションが好きなのか。

ファンタジーな世界観が好きであることはアニメーションが好きな理由の一つであり、逆に言えばアニメーションが好きだから「凪のあすから」のSF要素が好きだともいえる。

アニメーションは、同じ映像メディアの実写ドラマよりもSF要素との相性が良いというのは言うまでもない。物語を享受するうえでどこかで非現実を望んでいる。非現実への憧れは「凪のあすから」においてはファンタジーな世界観なのだろう。

凪のあすから」の世界観といえば、海村である。

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凪のあすから」では海村のリアリティを緻密な設定というよりは、細やかな美術設定や風習、そして息づくキャラクター達といった細やかな日常描写によって積み上げられてる。現実に住む自分は残念ながら実際に見ることはできない、しかし、空気に触れたいと感じるほど魅力的な存在感で作品を彩っている。

自分は生きたキャラクター達を描いた物語を好む一方で、現実にはない世界を欲しているのだ(実際に世界に触れたいと思うほどに)。

これが、自分がアニメーションが好きな理由の一つなのだろうという結論になのだろう。

 

なつぞら

ところで今、連続テレビ小説でアニメーションが題材として扱われている。その中で出てくる男性たちは物語に対して持論をもって真摯に向き合っている。小畑雪次郎と坂場一久のセリフを引用したい。

 

はじめに小畑雪次郎が演劇に心動かされたときに語ったセリフである。

芝居は運動なんかじゃないです。
演劇や文学の目的は、問題の解決にあるんじゃないと、イプセンは言っています。
その目的は、人間の描写です。人間を描き出すことです。
イプセンは、詩人や、哲学者としてそれを描いたんです。
そしてそれを見た観客も、詩的や、哲学的になることなんですよね。

この回を観た時、もうひとり有頂天になった。

 

もう一つは坂場一久がヒロインのなつに「アニメーションにしかできない表現」を問うてくるときのセリフである。

それは…ありえないことも本当のように描くことです。
違う言い方をするならば
ありえないことのように見せて、本当を描くことです。

(78話 坂場一久のセリフより引用)

雪次郎くんのセリフと合わせて、先ほどまで書いてきたことを全てを決定的なまでにフォローされた。これはもう「なつぞら」のフォロワーになるしかない…

 

それでも、悔し紛れに加えて言うなら、自分はアニメーションの可能性をそこそこ妄信的に信じている節がある。いままで、色んな制作会社がそれぞれの特色を出しながら様々な絵柄や表現を生み出してきたが、「まだ」「もっと」アニメならではの表現があるのではないか。既存のアニメ表現も異なる物語ジャンルでは新鮮な化学反応が起こるのではないか。と、劇場作品では特にそこに期待して観に行っている。

今日の一枚

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鍋冠山公園から

2月に行ってきた「色づく世界の明日から」の聖地、長崎の風景。聖地巡礼は空想の世界、キャラクター達をこの現実で少しだけ触れることができる行為なんだなぁと思った。